ため池の諸元
所在地 | 上田市手塚 女神岳の山麓から平地に出る境あたりに築造されています。 |
---|---|
築造年 | 舌喰池の新築年月は史料からは確認できません。 |
堤高 | 11m |
堤長 | 485m |
最大水深 | 4.0m |
満水面積 | 61,390㎡ |
灌漑面積 | 50ha |
貯水量 | 137,820㎥ |
池で見ることの出来る希少植物
ノジトラノオ ウマノスズクサ ユウスゲ コカモメヅル ツルフジバカマ タムラソウ
名称由来
いったい、「舌喰池」という誠に奇妙な呼び方が、いつ頃から言われるようになったか興味の持たれるところですが、手がかりとなる史料が、手塚の「曲尾ちず子家文書」に見えます。
1811年(文化8) 願書注進書控(ねがいがきちゅうしんしょひかえ)
(中略)
右は池上通り旱につき申し候 並びに舌喰池水甚だ少なく罷り成り申し候につき恐れ乍ら右の段書き付けを以て御注進申し上げ奉り候 以上
申(さる)六月二十五日 庄屋・組頭
御役所様
とあり、既に江戸時代後期、1800年代初頭(今から200年余前)には、役所に出す文書にまで「舌喰池」の名称が使われていたことが確認されます。
舌喰池には悲しい民話が伝えられています。
この辺りでは山田池に次ぐ大きな池ですから「大池」と呼ばれていました。昔、大池の工事のとき、土手から水が漏れて、どうしても十分に水を貯めることができませんでした。村人は頭をすり寄せ議論のすえ、苦渋の決断として「人柱」をたてることになり、くじ引きで決めることになりました。そしてくじを引き当てたのは村はずれで一人住まいの美しい娘さんでした。娘さんは悲しみの末、人柱にたつ前の晩に舌をかみ切り、池に身を投げて死んでしまいました。
村人は娘さんの遺体を手厚く供養し人柱にたてました。それ以来、池の漏水が止まりました。こののち村人は、この悲しい出来事を忘れてはならないと思い、「舌喰池」と呼ぶようになり、水を一層大切に使うようになったということです。
昭和50年代に舌喰池周辺の圃場整備が施工された際、池の北側の田から墓石が4基出土しました。これらは現在、無量寺の境内へお移ししてあります。この中に、「○永○未歳 早世霜元童女位」という戒名の石塔があります(1631年(寛永8)にあたるか)。民話に因むものとすれば、1622年(元和8)手塚池増築から10年目に、人柱になった娘の縁者が建てたとも想像されます。