ため池の諸元
所在地 | 上田市小島 池成神社東 西側は自然地形を生かした堤防 東・南・北側は築堤 |
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築造年 | 1617年(元和3)(塩田村々の歴史) 1618年(元和4)(上田市のため池台帳) 年号の違いは着工と完成年度の違い |
堤高 | 5.5m |
堤長 | 555m |
満水面積 | 38,500㎡ |
灌漑面積 | 45ha |
貯水量 | 102,000㎥ |
池で見ることの出来る希少植物
ノジトラノオ イヌハギ スズサイコ ウマノスズクサ ユウスゲ マキエハギ カセンソウ ホタルカズラ ツルフジバカマ カワラナデシコ
小島大池のイノシシ騒動(そうどう)
七月のあつい日の小島村での事件。
下之郷山の方から、何やらおおぜいの人たちが走って来た。
それに鉄ぽうの鳴(な)る音もして
まるで山狩りのような一団だったと。
村人がびっくりして外に出て見ると、イノシシが何頭かまっすぐに小島村へ向かって田んぼの中を走って来るではないか。
イノシシの群(む)れは、小島の田を荒らすと今度は保野の田んぼの方へ。そこもさんざんに荒らし、その向こうの福田(ふくた)の田んぼの方も行って荒らした。
そのうちイノシシの群(む)れはくるりと向きを変えて、また小島村の方へと走って来ると、田植えの終わったばかりの田を荒らし始めた。
小島の彦(ひこ)左(ざ)衛門(えもん)は、「イノシシのやろめー、おれのでえじな田をめちゃくちゃにしやがってー、」と叫(さけ)ぶと、くわがらをを振り回して田の中に飛びこんでいっただと。
するとその時、「ぱんぱーん」と、鉄砲の音。追いかけてきた一人が空砲を撃(う)ったのだ。
驚いたイノシシの群(む)れは、近くの小島大池に次々と飛びこんで行った。
その数、二十二頭も。
「イノシシはけしからん。田畑を荒らし回って、野菜など食い散らかしていく」
「このさいだ。思いきって、殺しちまえ」
「そうせえ。そうせえ。池に落ちてちょうどいい機会だ」
そこへ小島村の組頭(くみがしら)・次(じ)右(え)衛門(もん)が走ってきて叫(さけ)んだ。
「まてまて、生き物を殺した者が死罪になったという話を聞いたぞ。おちつけ」
「なあに、たかがイノシシだ。殺してみんなで食っちまえばわからねえ」
「ばか言うでねえ、子犬を殺しただけで打ち首だぞ」
打ち首の話を聞いた村人たちは、真っ青になって立ちすくんでしまったと。
大池の中では、何頭かのイノシシがアップアップしている。
おろおろしている内に、イノシシたちは池の藻(も)に足をとられてブクブクと沈(しず)んでいくではないか。
「えれえことだ。助けろ、助けろ」
村人たちはあわてて大池に入ってイノシシを助けたが、五頭が溺(おぼ)れ死んでしまった。
それを見た小島村の庄屋(しょうや)は、組頭(くみがしら)の次(じ)右(え)衛(も)門(ん)をすぐ上田のお役所へ報告に走らせた。
そして死んだイノシシを池の土手に寝(ね)かせムシロをかぶせて四人の村人を番につけ、
「お沙汰(さた)があるまでは、誰も近づけるな」と、言いつけた。
村人は生き残ったイノシシたちを池から上げると「もう田を荒らすなよ、山から降りてくるな」と、言い聞かせて下之郷山へ帰してやったと。
次の日、庄屋(しょうや)と組頭(くみがしら)は打ち首になるかとはらはらしながら、大池の堤(つつみ)に出てお沙汰(さた)を待った。
昼すぎになってやっと上田のお役人が来た。
見聞後、言いわたされたのは次のとおり。
「大池の東にある長池の脇(わき)に丁寧に穴を掘ってイノシシの死骸(しがい)を埋(う)める事。三尺五寸の木札に、『元禄二年巳市七月二十三日小島大池へ入り申し候(そうろう)猪の子五つ、もくにからまり死申候に付、即ち此所に埋置申候、以上』と書き、イノシシを埋めた側に立てる事。」
小島の村人たちは、イノシシを埋(う)めた回りに竹垣(たけがき)を結い「さげちょう」をした。
ていねいに葬(ほうむ)ったので村におとがめはなかった。との事だ。
江戸時代に生き物を殺したりいじめたりしてはいけないというおふれを出した将軍・徳川(とくがわ)綱(つな)吉(よし)のころの塩田の実話。
なお「生類(しょうるい)憐(あわ)れみの令」の記録に残る事例は上田近辺ではこの話のみ。
(塩田文化財研究所編「塩田平の民話」より再話)