手洗池 てあらいいけ

手洗池 てあらいいけ

ため池の諸元

所在地上田市古安曽 県道別所丸子線沿い柳沢集落の西に位置します。
築造年1654年(承応3)
堤高4.8m
堤長393.3m
灌漑面積27ha
貯水量91,000㎡

池で見ることの出来る希少植物

スズサイコ ユウスゲ コカモメヅル タムラソウ


概要

山のふもとで大雨等でも土砂が流れ込みにくいところで、集水面積が広く、良質の粘土がその場で調達できる場所に造られています。池の形は長方形で、その三方に土手が築かれているコの字型築堤(ちくてい)の代表的な池です。池水は西側は神戸川(ごうどがわ)から、東側は中ノ沢から取り入れられています。先人の努力によって現在は、遠く武石沖から10㎞余にも及ぶ水路を造り依田川の水がこの池まできています。

「手洗池」の名の起こりには次のような伝説があります。
昔雷山のふもとに大きなケヤキの木がありました。このケヤキの木の枝が折れると、嵐がおきて家や山野が荒らされました。村人は大欅に差し障りがあると考えるようになりました。
ちょうどそんな時、木曽義仲の臣手塚太郎金刺光盛(てづかのたろうかなさしみつもり)が通りかかりました。早速相談すると「ケヤキを切り倒すから、御神木(ごしんぼく)としそこに神様を祀(まつる)るがよい」と言われ、光盛が近くの池で手を浄め、ケヤキを切り倒してくれました。言われる通り村人が神様を祀ると、それから恐ろしい大嵐はなくなりました。光盛が手を浄めたので、「手洗池」と名付けました。
手洗池からは、遠く浅間山、烏帽子岳、根子岳などが望め、無言館への遊歩道や田園空間整備事業の一環として池一周の遊歩道が整備されました。現在は地域の人々の散歩コースになったり、塩田巡りの皆さんのコースの一部になったりしています。池にはカイツブリの親子がくらし、大きな鯉が群れをなして泳ぎ、立ち寄る人々のほっとする空間になっています。


エピソード

池づくりには上田藩から専門の土木技師が来て、腰に短刀を付けて指揮をしていたという。怠ける者は髪に赤い布片が付けられ、あるいは腰にも付けられて、監視の目が届くようにされたという。工事の人夫は上田藩全域に割り当て、毎日数百人もの人々が集められ、いわゆる人海戦術による工事が行われたという。工事は農閑期の冬場の仕事で、現在のような靴や防寒着などがない時代、草鞋(わらじ)ばきで働いたという。遠くから働きにきた人は近くの家に泊まって働いたという。1日働いて米1升が人夫賃として支払われたという。そして、1年ないし2年で完成させたというから驚きです。(柳沢誌と伝承より)

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