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いざ鎌倉! 塩田から鎌倉への道

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役である「北条義時」。その孫である「北条義政」が政界を引退して塩田に移住したことは、前にこのブログで紹介しました。
→ 鎌倉殿の13人 北条義時の孫は塩田に住んでいた | 塩田まちづくり協議会 (shioda-machidukuri.jp)
 義政は引退したものの、鎌倉との縁が切れたわけではなく、その子の国時、孫の俊時は、幕府の今でいう裁判官や大臣を務めていました。ご本人たちは幕府でのお勤めで塩田にいる時間はあまりなかったのでしょうが、それに代わる代官などが地元での仕事をしていたようです。いずれにしても、塩田と鎌倉の行き来は頻繁にあったと考えられます。また、塩田には安楽寺や前山寺など全国から僧が集まる「信州の学海」と呼ばれるようなところだったので、首都の鎌倉からお坊さんたちもたくさん塩田に来ていたでしょう。
東塩田の東前山に「竹之内」という地籍があって、どうもそのあたりに塩田北条氏の館があったと想定されています。そこから東の方に、鎌倉に通う道「鎌倉道」(かまくらみち)があったようです。
竹之内から東の方に道はのびて、今の手洗池の中を通り、というと池の中に道があったと思われそうなので注釈しておくと、塩田のため池の多くは江戸時代に築造されたり増築されたので、それ以前は、鎌倉時代にあったとしても小さなものだったのです。で、手洗池を通り、安曽神社や来光寺池、砂原池のあたりを経て丸子との境にある砂原峠に至ります。これが塩田の「鎌倉道」。
 そこから先鎌倉までは、丸子から碓井峠を越え、関東に出て上野・武蔵と南下する道と、もう一つ、諏訪と甲斐経由で鎌倉に行く道も考えられるようです。
北条義政が塩田に来たのが1277年。その後、3代にわたり鎌倉と行き来したのですが、足利高氏(尊氏)などと呼応して兵を挙げた新田義貞に鎌倉の北条氏は敗れてしまいます。国時、俊時一族も同様で、鎌倉において討ち死。それが1333年なので、塩田北条氏が塩田を治めていたのは60年弱。でも、国時が開いた龍光院や西光寺、安楽寺の八角三重塔ももしかしたらそうかもしれませんし、前山寺の開山にも関わったかもしれない。今も残る文化財をいくつも残してくれた一族だったのです。(F森)

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