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甲斐の国の武将で、戦国武将最強とも言われた武田信玄。塩田も支配下にしました。1553年に塩田城を落とし、それ以降約30年、信玄の跡継ぎの勝頼の時代も含めて武田氏がこの地を治めました。
その信玄ですが、彼のした戦(いくさ)では、なんといってもまず川中島の戦いが挙げられます。越後の上杉謙信と5回にもわたって争ったもの。
信玄も必死だったのでしょう。上杉に勝つために、生島足島神社に「願文」を供えています。「長尾景虎(上杉謙信)に勝たせてほしい。勝ったら10年間銭を奉納する」というようなことが書かれています。第3次の戦いの後、1559年のことです。
この願文、国の重要文化財になっていて、生島足島神社で保管されています。その写しが境内の「歌舞伎舞台」にあります。
そして、信玄の配下の武将たちに書かせた「起請文」というものもこのお宮にあります。全部で83通。信濃の国の武将たちに「信玄様には絶対背きません」ということを神前で誓わせたのです。血判がそれぞれ押してあります。
歌舞伎舞台にはこれらの写しがズラッと掲示されています。写しとはいえ、古文書の撮影はダメということなので、たくさん掲示されているのを写真に撮りました。
なぜ、武将たちにそんなものを出させたのか?
これが出されたのは、1567年なのですが、その前年にクーデター未遂事件があったのです。その首謀者は、信玄の長男の義信と重臣の飯富虎昌(おぶとらまさ)。飯富は、塩田城の城主を任されるほど信頼されていた武将です。身内と側近に裏切られた信玄は、きっとほかの武将たちが謀反することを恐れたのでしょう。だから神の前で謀反しないことを誓わせたのです。
ところで、信玄の「願文」の願う相手の名前は、生島足島神社ではなく、「下郷諏訪大明神」になっています。
実は、この頃、このお宮の名前は「下之郷大明神」といった諏訪大社系のお宮の名前だったのです。江戸時代中頃になっても「諏訪大明神」。江戸時代の後期になって、1799年に現在の名前に戻っています。
信玄が諏訪大社の神様「建御名方命」(たけみなかたのみこと)を信奉していたのかはわかりませんが、前回ご紹介したように、十人の皇子神社の祭神に、もともと祀られていた素戔嗚尊(すさのおのみこと)に加え、建御名方命を合祀するよう命じています。
また、前山の塩野神社も、当時は「諏訪大明神」とか「諏訪社」と呼ばれていて、信玄は、土地を寄進する旨を書いた「朱印状」をこのお宮に出しています。
前回ご紹介した保野の塩野神社も、この当時は「諏訪大明神宮」と呼ばれ、前からの祭神に加え、建御名方命を合祀しているのですが、これも信玄の命令とも考えられています。
なぜ、信玄が「諏訪」と名の付くお宮を重視したのか、そして、戦国時代から江戸時代前半の頃、これらのお宮がなぜ「諏訪」の名前が付いていたのか、大きな疑問です。でもたいへんに興味のある、解いてみたい疑問ではありますね。(F森)