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塩田平にたくさんあるため池を紹介するシリーズ。5回目は「手洗池」です。
「手洗池」。多くのため池は、その池のある地名を池の名前にしています。「山田池」「上窪池」「小島大池」などなど。でも、手洗池は違います。地名でない池の名前はほかにもあって、代表的なのが「舌喰池」ですかね。今回は、そんな手洗池の名前に着目してみました。
「手洗」の名前の由来は、木曽義仲の武将で、義仲に最後の最後まで仕えた手塚太郎金刺光盛にまつわる民話で伝えられています。
昔、柳沢村の山のふもとに大きなケヤキの木がドーンと立っていました。
ある年の大嵐でこの木の太い枝が折れて道をふさいでしまいました。村人は「何か悪いことが起きなければよいが」と心配しましたが、その年は何もなく、でも、次の年、前の年よりもすごい大嵐に見舞われ、山の木がほとんど倒れ、大ケヤキの枝もまた大量に折れてしまいました。
大ケヤキのたたりかと村人が話していると、手塚太郎が通りかかり、「ケヤキを切り倒して御神木にし、そこに神様を祀るが良い」と言いました。そして、近くの池で手を洗い、自ら木を切ってくれました。
この手塚太郎が手を洗った池が「手洗池」と呼ばれるようになり、吉日を選んでお祀りをすることになったそうです。
ところで、県道の別所・丸子線から前山寺に上がっていく道の脇、手洗池に入っていくところに「鎌倉道」と書かれた標柱が立っています。鎌倉時代の後半、塩田北条氏がこの地を治めていたころ、鎌倉に向かうために造られた道です。東に向かって、砂原峠を越えて関東に出る道。当時は、今の手洗池のところを通っていたようです。手洗池が本格的にため池として整備されたのは江戸時代の事ですから、その当時は今より小さな池だったんですね。塩田北条氏がこの地に来る100年も前、源頼朝の弟たちによって倒された木曽義仲と手塚太郎。鎌倉幕府の重鎮だった北条義政を祖とする塩田北条氏ゆかりの道が、手塚太郎と関係の深い手洗池の横を通っていたとは。両者とも知る由はなかったでしょうが、なにかしらの因縁を感じます。(F森)