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「太陽と大地の聖地」というキャッチフレーズは、日本遺産「信州上田・塩田平」のメインテーマですが、もともとは、別所温泉の活性化のためのプロジェクトで発案されたものです。
同じように、別所温泉を全国にPRするために数十年前に考えられたのが「信州の鎌倉」です。
今では、塩田を表すのにしばしば使われるキャッチフレーズですね。
塩田には、安楽寺や北向観音堂、前山寺など数多くの寺院があり、鎌倉の雰囲気があるのでそういう名前を付けたんだと思います。
ただ、塩田には、常楽寺や中禅寺など平安時代に造られたお寺も多くあり、「信州の小京都」だって良いと思うのですが、なぜ「鎌倉」か?
と、そこで思うのは、「塩田北条氏」のことです。
鎌倉時代の8代執権北条時宗の頃に、その補佐をしていた政権ナンバー2が北条義政という方です。
この人、蒙古が攻めてきた元寇で、2回あった戦の最初「文永の役」(1274年)でなんとか日本が防衛した後、突如鎌倉を離れ、塩田に移住してしまいました。
その後、約50年、3代にわたり、塩田を治めることになります。
これが「塩田北条氏」です。この存在観が塩田にとって今でも大きいので、「信州の鎌倉」になってのではないかと推測します。
初代の義政は、塩田に来て4年後に亡くなってしまいます。そのあとを継いだのが2代国時。
お父さんの菩提を弔うため、「仙乗寺」という臨済宗のお寺を建てました。今の「龍光院」(1枚目の写真の左)です。室町時代に衰退し、江戸時代直前の1601年に曹洞宗のお寺として再興されました。
龍光院は、今も「塩田北条氏菩提処」となっており、本堂の屋根にある家紋は、北条氏が用いた「三つ鱗」(みつうろこ)です。
国時は、この仙乗寺を始め、西光寺(1枚目の写真の右)や奈良尾にある「弥勒仏塔」などを造りました。また、安楽寺の国宝「八角三重塔」も、1290年代という建立年代からして、国時が関わったと考えられます。
国時とその息子の俊時は、幕府が新田義貞に攻め込まれたとき、鎌倉に出兵し、幕府と共に敗れ、自刃してしまいます。塩田北条氏は滅亡します。
今、塩田城跡の一番奥に「国時の墓」(3枚目の写真)と書かれた石碑が建っています。その横には「家臣亡霊供養」という石碑も。
国時は鎌倉で亡くなったので、お墓はここにはありませんが、江戸時代中頃、菩提寺である龍光院の住職が国時の供養のために建てたもののようです。
塩田城は、かつては塩田北条氏が造ったと考えられてきましたが、今では室町時代のものとされています。ただ、その直下の平らな所に北条氏の館があったということです。
50年という、塩田の歴史の中では短い期間と言えますが、お寺などの文化財を始め、今の塩田にもその影響を残してくれた塩田北条氏は、「塩田平を支えた」一族と言えるでしょう。(F森)