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塩田にいつから人が住み始めたかはわかりませんが、縄文時代の遺跡があるので、4千年以上前から生活していたことは確かです。それから今日まで、豊かな水田をつくり、多くの神社仏閣を建て、2万人もの人が住むようにしたのは、間違いなく多くの人が努力した結果です。
その中でも、「この人は」という方を取り上げて紹介していきたいと思います。
初回は、五加の甲田清右衛門です。
お一人の名前ではありません。江戸時代の前から明治まで、十数代にわたって「清右衛門」を継いでいたのです。
江戸時代の「清右衛門」たちは、五加の庄屋であると同時に、本郷や中野などの庄屋も務め、「塩田組の大庄屋」という塩田で一番偉い人も出ています。
甲田清右衛門義海という江戸時代初めの方は、ため池の築造に功績がありました。
上本郷の農家組合が管理している「甲田池」という貯水量が10万トン近い大きな池があります。
江戸時代の初め、元和7年(1621年)に築造されたのですが、その後増築されました。
それに功績があったのが甲田清右衛門。で、その功績のために池の名前に個人の名が付いたのです。そういう池は、塩田のため池ではここだけです。相当に一生懸命尽くされたのでしょう。
また、十代目の甲田清右衛門義親は、江戸時代後期の方ですが、この人もため池の築造に力を入れ、五加前池や男池、女池などの築造、修復に努力されました。また、五加八幡社や火事で伽藍が焼けてしまった真光寺の再建に取り組んだそうです。
そして、今、舞田の法樹院という浄土宗のお寺の横に「坂東三十三観音」が祀られているお堂がありますが、その一体は彼が奉納したということです。
最後に紹介するのが甲田清右衛門義達。明治の方です。幕末に寺子屋をつくり、子どもたちの教育に力を入れました。政府の命令により、明治6年(1873年)に初めての小学校ができるのですが、中塩田では五加の真光寺を校舎として、「盈進学校」という名前の学校ができました。
義達はこの創立にも関わったようです。
そして、彼は文学を好み、書道や謡曲といったものにも詳しかったのです。特に、狂歌には凝っていたようで、「耕月園貢」という号もありました。
五加には、この耕月園の歌碑が立っています。弟子が彼をしのんで建立しました。
そこに書かれている彼の歌 「漸くに いとをなびかす はるかぜは やなやなぎ緑となる ちからなるべし」
この甲田清右衛門。今はもう屋敷もなく、井戸一つがあるばかりなのだそうで、4百年にわたり中塩田の農業や人々の暮らし向きの向上に尽力した方々でしたので、ちょっと残念な気がします。(F森)