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塩田平を支えた人々 塩田の米増産を図った初代上田藩主

上田藩の初代藩主といえば真田信之公です。
 智将真田昌幸の長男で、信繁(幸村)の兄。父・弟は豊臣方、自分は徳川方と別れても、戦いに敗れた二人の助命嘆願をするなど何かと気遣った人です。
もっとも徳川家にも気を遣ったようで、助命を嘆願した際、豊臣軍に加わった父との決別を表すため、もともとの「信幸」という名前の「幸」を「之」に代えました。
1600年の関ケ原の戦い後、徳川家康から、群馬県の沼田のほか上田領も任され、1615年の大坂夏の陣の翌年沼田から上田に居を移します。
その後、1622年には松代に転封となって松代10万石という信州一の藩の藩主になりました。
その信之公、上田藩主の頃、塩田との関りはどうだったでしょう。というのが今回のテーマで、3つご紹介します。
まずは、ため池の築造です。
塩田は「上田五万石」のうち「塩田三万石」といわれた穀倉地帯です。当時の塩田の住民はほとんどが農民で、収入の中心は米作りです。藩としても、年貢は米でとりましたから、藩の財政を潤すためには米の増産は欠かせません。当時は収穫した米の三分の一が年貢だったそうです。
 稲作に適している一方、たびたび水不足になる塩田で米の増産をするには、ため池の築造が一番です。
ということで、真田氏の後の藩主である仙石氏や松平氏も築造を行いましたが、信之公の時代には8つのため池が造られました。山田池(1枚目の写真です)や小島大池、来光寺池、舌喰池といった、かなり大きな池も含まれています。
二つ目に紹介するのは、生島足島神社への支援です。お宮の領地として、土地を寄進したり、摂社諏訪社の本殿の建造も行っています。ただ、この頃の生島足島神社は「下之郷大明神」とか「諏訪大明神」と呼ばれていて、信之公がどんな意図があって寄進したのかは興味のあるところです。
三つめは、お寺の創建です。
保野の「龍昌院」。曹洞宗のお寺で、1615年に創建されました。ここに信之公の位牌があったことから、2010年に、彼の菩提寺である松代の長国寺から分骨を受けて、境内にお墓が設置されました。3枚目の写真にあるように、「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)という形式のお墓で、長国寺のお墓とそっくりです。
 93歳という、今でも「ご長寿」といわれるほど長生きをされた方で、生涯の中では上田藩主の期間は短かったかもしれませんが、塩田にとってもお世話になった方だと言えるでしょうね。(F森)

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