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塩田平を支えた人々 困窮した農民たちを救え!

昭和の初めというのは、ニューヨークの株価大暴落に端を発する世界大恐慌があったり、日本でも、都会では会社の倒産が相次ぎ失業者が増え、農村では農産物価格が下落したりと、経済的に大変な時期でした。
 上田でも、もちろん塩田でも同様で、多くの農民が携わっていた養蚕で、繭の価格が暴落して生活が非常に苦しくなりました。
そして、小作料値下げなど、生活をなんとかさせようという農民運動が活発になりましたが、その指導的役割を果たしたのがタカクラ・テルです。
本名は高倉輝。高知県の出身の文学者、思想家。大正末期から別所温泉の借家に暮らしていました。
タカクラは、「上田自由大学」という、上田の青年たちが大正期に始めた学習活動で講師を務めていました。自由大学は、文学や哲学、社会政策などについて講義を受けるものです。
また、彼は別所温泉の在住記念として、別所のいい所を謡った「風流七苦離の里」という長唄も作っています。その記念碑が大湯薬師堂の境内に建てられています。(1枚目の写真です)。
そしてタカクラは、農民の苦境をなんとかしようと農民運動を支援し、昭和4年(1929年)に行われた上小農民組合連合会の総会に山本宣治という人を招いて講演会を行いました。千名を超える人たちが聴講したそうです。
 山本宣治は、京都府出身の生物学者で労農党の代議士でもありました。治安維持法の改正に強硬に反対していたのですが、講演の4日後、東京で右翼に暗殺されてしまいました。
上小農民組合連合会は、山本の死を悼み、タカクラの借家の庭に記念碑を建立。ところが、タカクラ自身が昭和8年(1933年)に二・四事件という長野県の教員が治安維持法違反で大量検挙された事件で逮捕され、家族は県外追放になってしまいました。
警察は、タカクラの借家の大家であった柏屋別荘という旅館を経営する齋藤房雄に対して、山本の記念碑の取り壊しを命じたのですが、齋藤は密かに自宅の庭に埋め、38年間にわたってそれを守りました。
昭和46年(1971年)になって記念碑は再建され、今、安楽寺の隣接地で見ることができます。
そして、昭和61年(1986年)に亡くなったタカクラと、山本の記念碑を守った齋藤の碑も一緒に建てられています(タカクラの碑が2枚目の写真、3人の碑を撮ったのが3枚目です。真ん中が山本、右がタカクラ、左が齋藤の碑です。)。「人間を信じる心」。タカクラの信条でしょうね。大切にしたい言葉です。
 農民たちの苦しみをなんとかしたいという思いから活動したタカクラと山本、そして彼らをバックアップした齋藤。3人の思いを感じることのできる場所が名刹安楽寺のすぐ横、ここにあるのです。(F森)

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