ブログ

塩田平を支えた人々 幕末に中野村を助けた武士

前回のブログでは、昭和初めの農民たちの困窮について書きましたが、農民たちが苦しい生活を送っていたのはこの時期だけではありません。
幕末の上田藩は財政難で、農村改革、軍制改革などいろいろな改革を行いました。当時、藩主の忠優(ただます 後に忠固 ただかた)は、江戸で幕閣の中心老中などを務めていました。藩主が上田にあまりいない間、1840年代に藩の家老を務めたのが藤井右膳という人で、足軽など武士でないけれども優秀な人を登用して改革を進めました。これまでにない手法で改革しようといういわゆる「改革派」の人たちです。
 その中の一人が犬飼情兵衛(いぬかいせいべい)。代々足軽だったのですが、彼一代限りということで士分になり、武士として藩に仕えます。
やったのが中野村や保野村の農民支援です。
今の中野や保野は塩田の中心地区といっても良い所で、特に中野は自治センターや銀行、病院などがあり、人口も多いですね。でも当時はものすごく困窮していたのです。なぜかというと、このあたりは山から遠く、主な燃料である薪や田んぼの肥料になる下草を手に入れるには、ほかの村の山に行って運んでくるしかなかったのです。米作りをするには結構たいへんな所です。
犬飼はこの村の実情を調べました。全92戸のうち、「難渋」又は「極難渋」という家が半分の46戸結婚できないでいる男女が50人もいるという状況です。
そこで犬飼は藩に働きかけ、藩から年間50石の米を10年間もらえるようにしたり、結婚できないでいる若者に田んぼの耕作をさせるといったような支援を行いました。
50石というとどの程度か実感できないのですが、1石は一人が年間に食べるお米の量に相当するそうです。年間1000合が1石です。一食で1合、日に3合の計算になります。50石は、したがって50人が1年で食べる米を10年間確保できたことになります。ちなみに、1合のお米は約150グラムです。小学校の給食で1食に使う米は70グラムだそうで、1合は2倍以上になります。昔は食事の相当部分が米だったので、食べる量も多かったのでしょう。

犬飼は、月に3~4回は中野村に足を運び、村人たちを指導しました。
ところが、支援を始めて5年後、突然解任され謹慎処分になってしまいます。家老を始め改革派の人たちも同様です。どうも改革派のやり方を気に入らない「守旧派」とも言える人たちが画策したようです。
犬飼は、村人から賄賂を取ったりして迷惑がられていたというのが解任の理由のようだったのですが、謹慎中に「自分は無実」と書付を残して自殺してしまいます。
村人は、その後犬飼の働きを讃え供養する碑を建てました。碑の表には「善覚勇慶居士」と書かれています。迷惑がられていた人にそんなことはしないだろうなあ、と思いますね。無実の罪だったと信じたいです。
最初の写真がその碑なのですが、中野自治会では、彼の功績を記した説明板を作り、碑の横に設置しました。それが古くなったので、2年前に新しいものに作り替えました。2枚目の写真です。
苦しむ農民のためにがんばった人が無念の死を遂げるというのは悲しいものです。でも、それを今もずっと伝えてくれえていることはありがたいことですね。(F森)

関連記事

  1. 別所温泉の旅館の前にハスの花が!
  2. 塩田の古墳① 高台の古墳群
  3. 塩田の文化財 -噴火の跡? 常楽寺石造多宝塔-
  4. 能登支援のマルシェ 大盛況でした!!
  5. 四国八十八所の霊場を信州の塩田で巡る その18 龍澤寺
  6. 塩田平の文化財 信州一の大木 大六のケヤキ
  7. 四国八十八所の霊場を信州の塩田で巡る その8 中禅寺
  8. 塩田平のため池のすべてが分かる本が出ました

最近のブログ記事

PAGE TOP