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塩田地域が独自に学校を造った頃の話

前回は、明治の初めに塩田で初めて学校ができたお話をしました。
→ https://shioda-machidukuri.jp/3773
 今回は、ちょっと時代は下りまして、大正時代終わりにできた学校の話題です。
その学校、名前は「塩田公民学校」といいます。塩田の各村で組合を作り、「組合立」として共同で運営する学校だったのです。
大正14年(1939年)の12月に開校。小学校を卒業した子どもたちが対象で、修業年限は、前期2年、後期3年でした。今でいうと、中学校と高校という感じでしょうか。
生徒数はどのくらいだったかというと、発足直後の数字では、男子165名、女子355名の計520名でした。全員1年生です。今、塩田中学の全学年の生徒数が500名ちょっとで、一つの学年では170~180名。今の中学の全学年くらいの数の子どもたちが通っていたのです。決して義務教育ではなかったのですが。
 しかも、女子生徒が3分の2。これも驚きです。「勉強したい!」という気持ちの表れでしょうか。この頃、全国的に経済は非常に苦しい時期になってきていました。このちょっと後には昭和恐慌ということで、農村の暮らしは塩田でも決して楽ではなかったでしょうが、親も、そして子どもも「勉強」に関しては積極的だったのでしょう。
で、何を学んだかというと、当時の「西塩田時報」という新聞に掲載されていた「学則」を見ると(2枚目の写真です)、前期では、国語や算術、珠算、体操といった一般教養的な授業のほか、男子では作物栽培法、女子では養蚕といった農業技術系のものもあります。
また、後期の3年間では、男女とも簿記を学んでいますし、農業技術系も高度な科目です。女子では、「食物調理法」や「普通衣服の裁縫」、「育児」、「看護」といった家庭科系の授業もあります。
この公民学校、戦時色が強くなってきた昭和も10年代になると「国民学校」という全国一律のものになってしまいました。
 そして戦後は、小県蚕業高等学校塩田分校になりました。今の上田東高校ですね。その分校として昭和40年(1965年)まで塩田の地の中等教育を担ったのです。
今も、JAのAコープ塩田店の端に「塩田公民学校跡」という石碑があり、正門の柱も残っています。
鎌倉時代、全国から学僧が集まり「信州の学海」とも呼ばれたこの塩田、近代においてもその気風は残っていたのでしょうし、今も、そしてこれからも引き継がれていきますよね、きっと。(F森)

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