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塩田のお寺は明治の廃仏毀釈でも生き残った!

塩田に仏教関係の文化財が多いことは良く知られています。800年以上も前の平安時代や鎌倉時代に造られたお堂や仏像もあります。
写真は、安楽寺八角三重塔中禅寺の薬師如来坐像。国宝と国の重要文化財です。
こういったものがたくさんあって、「信州の鎌倉」なんていわれているのです。
そして、長い年月、地震にも、台風にも耐えて、今なお健在です。
でも、天災ではなく、人の手で壊されるようになってしまったかもしれない出来事がありました。
明治政府ができたばかりの頃、廃仏毀釈が全国で行われたのです。
明治元年(1868年)に政府が「神仏判然令」という命令を出しました。神社から仏教的要素のものを排除するもの。これが、神社の神官などがお寺や仏像を壊す動きになってしまい、それが全国に広がりました。
神社と一緒にあった「神宮寺」という神仏習合を象徴する寺がひどかったのですが、そこの僧が神官たちより権力も収入も持っていて、日頃からそれをよく思っていなかったのが一気に噴き出して、ほかにも広がっていったということでしょうか。
 鹿児島県では、その当時あった1600ものお寺が全てなくなったそうです。その後復活はしましたが、今も400くらいしかお寺がありません。
長野県内では、松本がひどかったです。松本藩最後の藩主で、その後明治になってから藩知事という職になった戸田光則という人は、自分の菩提寺を含め、140余もの寺をつぶし、残ったのは15だけだったということです。
その点、上田はラッキーでした。比較的平穏。
ただ、やっぱり神宮寺は廃寺になりました。
生島足島神社には、当時「神宮寺」と、普賢堂や大日堂、阿弥陀堂などの仏教系のお堂がありました。それらはみんな取り除かれてしまいました。仏像も焼却されそうになったのですが、隣にある長福寺(4枚目の写真です)の住職がもらい受けて安置してくれたのです。
また、今は本殿の中にあって一般の人たちは見ることすらできない「内殿」という昔の本殿があるのですが、その建物の仏教的な要素、例えば、柱をつなぐための横材である貫の先端にある「木鼻」なんかは削り取られてしまいました。
 明治政府が「神仏判然令」を出したのは、天皇を中心とする祭政一致体制を確立することや、江戸時代末期の国学(日本の古代文化、文学を重要視する神道中心の考え方)の影響、そして、檀家制度、宗門人別改帳など江戸幕府の仏教中心の統治手法から脱却したかったという目的がありました。
だから、神社から仏教的要素をなくすための命令を出したのですが、それがお寺や仏像全般までなくしてしまおうという動きに広まってしまって、極端な行動に出た藩があったのです。
 上田はそこまではいかなくて良かったとはいえ、鹿児島や松本のような動きがあったら、塩田の文化財はなくなってしまったかもしれません。
今日も前山寺の三重塔を眺めながら、「この素敵な塔がなければ、この勾配のきつい坂道を毎日のように上がってなんかこないよね」と思う日々です。(F森)

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