塩田北条氏については過去にも取り上げましたが、今回は、供養塔の特集です。
塩田北条氏についてのおさらい。
鎌倉時代、2代目執権だった北条義時の孫で義政という方がおられました。
義政公、子どものころから文武両道に秀でた方だったそうですが、その後、8代執権時宗の時、幕府第2位の地位になります。時宗は元寇で2度にわたって蒙古を退けた方ですが、義政は、最初の元寇「文永の役」(1274年)のとき、執権を補佐する「連署」を務めていました。
見事に蒙古を撃退した後、義政公は突如出家、隠退します。理由は諸説ありますが、信州の地に来て、ここ塩田に館を構えます。文永の役の3年後のことです。大役を仰せつかって一段落したからでしょうかね? 36歳の時の隠退でした。
塩田に居を構え、悠々自適の生活といきたかったのでしょうが、4年後の1281年に40歳で亡くなってしまいます。その息子「国時」は父の菩提を弔うため、臨済宗の「仙乗寺」というお寺を今の前山地区に建てます。このお寺は、その後の1601年に曹洞宗の「龍光院」になって現在に至っています。
義政、国時とその子の俊時の3代がこの塩田で暮らし、「塩田北条氏」と呼ばれていて、鎌倉幕府滅亡までの約60年間、塩田を治めました。
そして国時も俊時も幕府で要職を務めたのですが、1333年、幕府が足利尊氏や新田義貞との戦いに敗れて滅亡します。国時・俊時親子も鎌倉にはせ参じたのですが、結局自刃してしまいます。
で、塩田北条氏の墓塔・供養塔の話です。
龍光院の急な坂の参道横にある墓地には、「義政の墓」と言われる石碑が立っています。最初の写真です。石の表面には文字が書かれていたんだと思われますが、なぜか消された風です。
最近になってその石碑の前の通路が石畳になり、標柱も新設されてお参りしやすくなりました。
そして2枚目の写真。お寺の山側に「塩田北条氏追善供養塔」があります。
昭和47年(1972年)に龍光院が建てたもので、最近になって新しい五輪塔になっています。横に建つ説明板には塩田北条氏の歴史が書かれていました。
最後に紹介するのは「北条国時の墓」です。
龍光院の東側に「塩田城跡」があります。東西200m、南北700mにわたって城が築かれた所です。昭和の頃は塩田北条氏が鎌倉時代に築いたとされていましたが、その後の発掘調査で室町時代のものとなっています。当時この地域を治めていた村上氏の武将である福沢氏が主だったようです。
その城跡の一番南側、登山道のような急坂な道を登っていった突き当りに「国時の墓」があります。石の表面には文字が刻まれているようですが、良く見えません。「塩田の石造文化財」という本によると、「正慶2年」という年号と国時の官位や戒名が書かれているそうです。正慶2年は西暦でいうと1333年、国時が亡くなった年です。戒名もあるとなると「墓」のようですが、どうも江戸時代中期に建立されたものとこの本では推定していますね。龍光院の関係者が供養のために建てたものでしょうか。
この供養塔の横には「塩田陸奥守殿 家臣亡霊供養」と刻まれた石碑もありました。国時の供養塔と合わせて建てられたものと考えられます。
龍光院を始め、西光寺、安楽寺八角三重塔など、今も塩田に残る文化財を残した北条氏。多くの人に「供養」に訪れてもらえればうれしいですね。(F森)














