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NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。最終回では、主役の北条義時が「承久の乱」で朝廷側に勝って、後鳥羽上皇は隠岐に流されます。そして、その義時も亡くなってドラマはおしまい。
承久の乱が起こったのは1221年。北条氏はその後百年以上にわたってこの国を治めました。
義時の孫 義政が塩田に移住してきたのが約50年後の1278年で、子の国時、孫の俊時までの3代で55年間塩田を治めたのです。
14世紀に入って、鎌倉幕府も力が弱くなってきます。2度も蒙古に攻められるとか、政権も長くなるといろいろ腐敗だとかが進んだのでしょうか。そして、後醍醐天皇が討幕運動を起こし、これに呼応した足利尊氏や新田義貞などが兵を挙げます。
そして、1333年。幕府軍は新田義貞の軍勢に鎌倉での戦いに敗れ、幕府は滅びます。
この時、塩田北条氏の国時、俊時親子も戦うのですが、新田軍に攻められ自決。塩田北条氏は滅亡します。
国時が父親の菩提を弔うために建立した龍光院の東側に「塩田城跡」があります。塩田城は、塩田北条氏が造ったと一時は言われていましたが、できたのは室町時代のようです。が、この城跡の奥の方、弘法山に登っていく途中にあるのが「国時の墓」。高さが1.4メートルほどの石塔です。表には「塩田陸奥守国時之墓」と彫られています。亡くなった1333年(和暦では正慶二年)5月22日の日付もあります。
横には「塩田陸奥守殿 家臣亡霊供養」の石塔も。
国時親子が亡くなった後、塩田の人たちが建てたのでしょうか? とも思われますが、塔の造りから、実は建てられたのは江戸時代中頃のようです。亡くなってから400年前後。供養のために建立されたのでしょう。江戸時代のものとわかって「なーんだ」と思いましたが、400年たっても塩田北条氏というのは地元で敬愛されていたのかと思い直しました。地域を治める人は、室町時代の福沢氏であったり、真田氏であったり、徳川幕府と代わってきても、「墓」を建ててくれるなんて、すごい!(F森)