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塩田平の文化財 青面金剛

塩田平の文化財を紹介するシリーズ。今回は、庚申塔の一つである「青面金剛」です。「しょうめんこんごう」と読みます。
庚申塔は、江戸時代頃まで流行った「庚申講」のための石塔です。
 庚申講とは次のようなことから行われるようになった「講」の一つ。人間には「尸虫」(しちゅう)という虫が3匹体の中にいて、60日の一度の庚申の夜、人間が寝ている間にその虫たちが天に昇り、天帝にその人の悪口を言うので、尸虫たちが天の昇らないよう、講の仲間たちで集まり、一晩中寝ないで酒盛りなどして過ごすというもの。中国の道教からくるという民間信仰ですね。
その庚申講のために建てられたのが「庚申塔」です。塩田では、これが約20か所あります。「道祖神」は170くらいあるので、それと比べると少ないですが、江戸時代末に22の村があったので、平均すると村に1か所くらいあった勘定。そのうち3分の2は「庚申」とかが書かれた「文字碑」で、「青面金剛」の像を祀った所が6か所あります。
青面金剛は、庚申講の本尊で、尸虫を押さえる神様なのです。彩色される場合はその名のとおり青く塗られるそうです。
そして、一般的な姿は、手が4本か6本あって、鶏と猿が描かれています。塩田の6つの像はどうでしょう。中組にある像は写真が撮れていないのですが、ほかの5つを見ていただきます。
最初の写真は別所の常楽寺にあるもの。手が6本で、鶏が2羽、猿が3匹います。
2枚目は、石神の釈迦堂と上本郷の泥宮。石神は手が2本、鶏2羽、猿2匹。泥宮は手が4本、鶏2羽、猿2匹。
 3枚目は、西前山の中禅寺と山田の満願寺。中禅寺は手が4本、鶏2羽、猿2匹。満願寺は手が6本、鶏2羽、猿2匹。
6つの青面金剛が建てられた時期ですが、すべて江戸時代です。しかも、文字碑の庚申塔は江戸時代も終わりに近い時期まで建てられているのですが、青面金剛は、皆江戸時代の前期のものです。一番遅い常楽寺のもので1723年。8代将軍徳川吉宗公の頃です。なぜ、後半には造られなかったのかは不明ですが、江戸時代前期は、文字碑より青面金剛の姿のあるものが圧倒的に多い。何か理由があるのか、調べてみたくなります。
 道祖神のように、今でも、塩田の各自治会で子どもたちが主役の道祖神祭りがあって、その存在が知られているものとは違い、庚申塔がどういうものなのか、青面金剛の意味するところなど、知っている方は少なく、そもそも石塔の存在自体も知られていないのが実情です。文字碑も含め、少しずつ紹介していきたいものです。(F森)

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