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塩田に初めて学校ができたのは、明治6年(1873年)です。今から150年前のこと。
それまでも上田藩では「明倫堂」という藩校がありましたし、各地に寺子屋もあったでしょうが、国の制度で学校ができました。明治5年に「学制」という教育制度の法令が明治政府によって出され、全国各地で学校が造られました。
塩田では、東塩田に「習成学校」、中塩田に「盈進学校」、西塩田に別所も通学区の「昇高学校」ができています。
でも、政府から「学校を造れ!」と言われても、先生を集めなければなりませんし、教材も用意しなければならない。特に校舎をすぐに建てるなんてことはできません。
そこで、各地区では、お寺とか個人のお宅を校舎として活用しました。習成学校は鈴子の大きな商店の家でしたし、盈進学校は五加の「真光寺」、昇高学校は山田の「満願寺」です。お寺に学校って、まさに「寺子屋」。最初の写真は「盈進学校」のできた真光寺です。
習成学校は、その後、富士山地区が分かれて「富士山学校」を造り、盈進学校からは下之郷が分かれて「戴明学校」、昇高学校からは手塚・新町・東前山・西前山が分かれて「日就学校」に、その後別所も分かれて「別所学校」を造っています。塩田では、今は3つの小学校になっていますが、明治の頃はたくさんあったのですね。ちなみに、盈進学校から分かれた下之郷の「戴明学校」」は、明治元年にできたばかりの生島足島神社の「歌舞伎舞台」を校舎にしています。2枚目の写真です。
そして、注目すべきは学校の名前です。今は市や地区の名前を付けて、例えば「上田東小学校」だったり、「東塩田小学校」というのが一般的です。でも当時は違いますよね。
中塩田の「盈進学校」。「盈進」って? ということで調べたら、中国の四書五経の一つ「孟子」に出てくる言葉なのです。
儒学者の孟子の言葉を集めた語録です。この中で出てくる「源泉混混(げんせんこんこん) 不舎昼夜(ちゅうやをとわず) 盈科而後進(あなにみちてのちすすみ) 放乎四海(しかいにいたる)」という言葉から付けられました。水がくぼみを満たして一歩一歩順序を踏み、たゆまず進むという意味だそうです。真光寺には、「盈進学校跡」の標柱と説明板が塩田平文化財保護協会によって設置されています。
こういう学校の名前、志が示されていていいですよね。中塩田小学校の学校だよりの名前は「盈進」、学校の敷地内にある池は「盈進池」と名付けられていて、今もその志は受け継がれています。(F森)