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曹洞宗の大圓寺は、富士嶽山のふもと、奈良尾地区の高台にあるお寺です。関ケ原の戦いの2年後、1602年に創建されています。
この寺の山門の一段下のところにあるのが「火定様」(かじょうさま)と言われている、九代住職の徳邦和尚のお墓です。お墓はお堂の中に大切に置かれています。
実は、このお堂、かなり痛みが激しくなったので、昨年改修されました。そして、改修前はお墓の前に扉があって、格子の間からしか墓石を見ることができなかったのですが、今は扉がなく、正面からしっかり拝むことができます。墓石の正面に彫られている文字は「当山九代大和尚入火定之墓」。
「火定」(かじょう)とは何かというと、仏道の修行者が自らの身を火の中に投じて焼身することです。
なぜ徳邦和尚はこのようなことをされたのか、墓石の正面以外の3つの面にそのいきさつを書いたものが彫られています。
それによると、和尚は江戸時代中期の1744年に住職となり、常に働き続け、そして坐禅に励んだそうです。そして、1752年の旧暦10月29日の真夜中、自ら薪を積み上げた上に坐って火をつけました。この碑文によると、この火定を止めようと、ほかの寺のお坊さんが来ていたのですが、夜中みんなが寝入ったところで火定をしたということです。
人々は、この行為について、ある人は謗り、ある人は褒め称えたそうです。
和尚のこれまでの行い、教え、願いを知っている村人は、和尚の徳、そして信仰の深さを後世に伝えるため、経緯を記した碑文を彫ったこのお墓を建てたということです。
この碑文には、火定の動機について記されていないのですが、当時、この地域には麻疹(はしか)が流行っていて、それを抑えるため火定したと地域では伝わっているようです。
感染病というのは、いったん流行りだすと収束するのはとても難しいと、私たちもコロナで経験しました。
まして、まだ医学も薬学も今のように進歩していない中では、神仏にすがるしかないのかもしれません。
当時でも、碑文にあるように、この行為を批判する人もいたようで、今もいろいろな評価があると思います。でも、やっぱり心情的には、和尚の気持ちを汲み、村人たちの思いも理解したいですね。
この高台からは、北に向かって視界が広がっていて、眼下には東塩田が一望でき、そしてその先には、上田市の代表的な山である太郎山や虚空蔵山、あるいは、ほかの塩田地域ではあまり見ることのできない北信地方の真っ白な山々も望めます。
改修され、扉がなくなったお堂からは、徳邦和尚もこの景色を見ることができるようになって、喜んでいる、かもしれません。(F森)